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(76) ジャズの囚人

herbie.jpg
NO.76 2012.1.26



<ジャズの囚人>





この盤を最後に、ハービー・ハンコックはブルーノートを後にした。
出所して行くプリズナー(囚人)のように。
その時、彼のやりたい音楽がどういう物だったのか、それは分からない。
ただ、一つだけはっきりしていた事があった。
「ジャズは金にならねえ」
この後のハンコックはフュージョン路線を走り始める。
1969年春のことであった。

人は誰も成功して金を得たい。
そこにあるのは程度の差だけだ。
強い要望を持つ者は、ハンコックやマイルスがそうであったように、より商業主義的な方向へ向かった。
一方、ジャズメンであることに拘り続けた人もいた。
彼らはジャズの囚人であった。
ある者は自ら望んで囚われの身となり、またある者はそこを出てどこへ行き、何をすれば良いのかわからなかった。
何れにしても彼らはどこへも行かず、その場に留まり続けた。
そして多くは時代に取り残され、経済的にも恵まれることはなかった。
だが偶然にせよ必然にせよ、彼らの手にはプライドが残された。
金で転ばなかった者のプライド、ジャズの囚人のプライドが。

だが、いつの世にもプライドは食えない。
つまりジャズが食えないのであれば、他に何か食えるモノを探す必要がある。
それが彼らジャズの囚人にも喫緊の課題であった。
スタジオミュージシャンとして糧を得る事が出来た者は幸運である。
キャバレーのバンドマンの席を得た者もついていた。
だが音楽とは無関係の仕事で食い繋ぐしかない者も多数いたのである。

多くの者が様々アルバイトに精を出しながら、いつかまたジャズにスポットライトが当たる日を待った。
その日暮らしも慣れればそう悪くない。
アルバイトが終われば、夜は小さなクラブでたまに演奏も出来る。
そうして70年代、80年代が過ぎ去った。
ハンコックが身を寄せたフュージョン業界は、一時活況を呈していた。
だが二度とジャズに光が当たることはなかった。
時代の風向きは完全に変わっていた。

フュージョンで成功しひと稼ぎした後、ハンコックは何食わぬ顔で帰って来た。
もう金は充分ある。あとはジャズで細々とやっていこう・・・
その後私はホテルのディナーショーで彼を見た。
スポットライトを浴び、スタンディング・オベーションをもって迎えられたハービー・ハンコックははにかんだように笑い、けして目を合わそうとしなかった。











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