(169) 音楽がある限り

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NO.169 2014.8.3



<音楽がある限り>



デニー・ザイトリン、1998年のビーナス作品である。
端正という表現がぴったりだ。
アル・フォスターのドラムがなかったら、少しばかり単調なアルバムとなった可能性はあるが、ジャズというのは不思議な音楽で、ピアノトリオならピアノとドラム、ベースが会話しているかのような流れにしばしばなる。
ピアノが多少予定調和的であっても、聴きどころはそうした流れの中にもある。
だが、それもマルチトラックによるレコーディングが横行しているようだから、近頃では怪しいものになってきた。
映画の撮影のように、各パーツを別々に作り、ジグソーパズルを組み立てる如くの作業となっているなら、それを知らされればジャズファンとしてはだまされた気分にもなろうというものだ。

デニー・ザイトリンは精神科医でもある。
二足のワラジというやつで、そういう人は少なくないが、はっきり言って感じよくはない。
不動産屋兼内装屋、ラーメン屋兼ギタリスト、ジャズ喫茶のマスター兼評論家、これくらいの所ならまだ許してもいい。
医者であり作家、ピアニストであり工学博士、元都知事で現在衆議院議員でありながら作家でもある、こういうのが面白くない。
最後のは言わずと知れたあのご老人だ。
政治と文学のどちらがあなたにとって大切ですか?
この質問に「そりゃあ文学です」と彼は即答したという。
ちきしょう、そう思いつつも最新作を読んだ。
「やや暴力的に」
いったいあの男はこれをいつ、どこで書いていたものか。
悔しいけど面白かった。







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(170) 二択困難

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NO.170 2014.8.5



<二択困難>




今となっては「High Five」で有名なファブリツォ・ボッソの2004年作品。
ハイ・ファイブの「Five For Fun」とはピアノ、ベースが異なるだけだ。
本作が日本でのデビューアルバムとなった。
ダニエル・スカナピエコ(ts)との強力なフロントは既に確立しており、何やら余裕すら感じさせる。

最近トランペットは島裕介を集中的に聴いてきた。
その後ファブリツォ・ボッソを改めて聴くと、人種の違いをしみじみと感じるものだ。
胸板の厚みの差というか、エンジンの排気量の差といった感じか。
どれほど発音が完璧でも、日本人の女性ボーカルはすぐ分かる。
それと同じことだと思う。
身体を支配しているホルモンの差が音になって現れる感じだ。
松岡修造とジロラーモの芸風の違いとでも言うか。

では、どちらが好きかと言えば、それは難しい話になる。
女性ボーカルの二択なら日本人。
ではあるが、日本人以外に好きなボーカルがいないかと言えば、そんなことはない。
むしろいくらでも挙げられる。
しかし、日本人以外の女性ボーカルに色気を感じない、これは事実なのだ。
音楽として聴く分には問題とならないが、私は日本人以外の女性と生活することなど出来まい。

こうした感情というか血が、いざという時国を守る男たちの勇気を支えるのだと思う。
逆に言えば、外国の非戦闘員に対する無差別爆撃を平然と行わせる原動力ともなるのだろう。
人間という動物の度し難い暗部だ。
それはともかく、では二つのトランペットはどうかといえば、私は急にどちらとも言えなくなる。
ファブリツォ・ボッソの持つ軽やかさ、軽々と難所を越えていくような馬力感を島裕介は持ち合わせない。
だが島裕介の背後に見える日本の美しい山河、また雨月物語にも通じる鬼気迫る闇、そうしたものは当然ながらファブリツォ・ボッソとは無縁だ。

私にはどちらか一方を選択するのは困難である。
それはどちらか一人と生活することも、またけしてないというのが案外理由かもしれない。
本作は非常に録音が良い。
ウーハーが良く動く。
それが見えるようだ。









(171) smooth jazz

paul marc
NO.171 2014.8.8



<smooth jazz>



スムース・ジャズである。
アシッド・ジャズやクラブ・ジャズなどと同様、なにか得体のしれないものと近寄らなかった。
我が国ではほとんど無視されているが、こういうのがアメリカでは流行っているらしい。
というか、一つのジャンルとして確立し、専門の放送局まであるというのだ。
それなりの需要があるということで、ではいったいどのような需要かと言えば、TVドラマなどのBGMだそうだ。
なるほど、そう思って聴けば、LAあたりを舞台にしたソープオペラのシーンが目に浮かばないでもない。

マーク・アントワンはロマの血をひくフランス人ギタリスト。
ポール・ブラウンは元々この世界で有名なプロデューサーだった。
それが自身もギタリストとしてデビューし、セルフプロデュースもしている。
この二人、実は今回初めて知った。
アメリカではアール・クルーやジョージ・ベンソンなどが、今やスムース・ジャズのミュージシャンとして認識されているようだ。
もちろんギタリストだけではなく、検索すればデビッド・サンボーン、ボブ・ジェームス、アル・ジャロウなんかも、このジャンルに出てくる。

ではフュージョンとどこが違うのか、という話になるが、圧倒的に一曲一曲が短い。
まさしくドラマのBGMとしてはこれでたくさん、使い勝手が良いのだろう。
つまりソロパートが極めて短いわけで、これでジャズと言えるのか、と言い出したらその通りとしか言い様がない。
しかし思い起こして頂きたいのだが、かつてジャズの演奏というものは短かったのである。
それはSPレコードの片面3分程度という物理的な枠内に収める為だった。
それがLPレコードの登場でどんどん長尺化し、片面一曲20分以上も珍しくなくなった。
だが、長ければ素晴らしいのかといえばそんなわけもなく、苦痛に満ちた大作は実際少なくない。
必然性があれば脱ぐと女優は言う。
それはあってもなくてもどんどん脱いでもらって構わないのだが、必然性のない長尺録音はただダラダラと長いだけの演奏に堕しやすい。
CD一枚80分、こんな時代だからコンパクトにまとめる努力がむしろ必要とされる。

にしても本作の一曲は短い。
もうあっけないほどの短さだ。
だから10曲入って全体では40分に過ぎない仕上がりとなる。
全曲彼らのオリジナルだが、見方によれば曲を浪費しているとも取れる。
これはコンポーザーには辛い。
つまりアルバムをうめるために、たくさん曲を書かなければならなくなるからだ。
その10曲であるがどれも出来がよく、もうちょっと弾いてくれないかな、もう少しアドリブ聴かせてよ、という気持ちには間違いなくなる。
コンパクトにまとめ過ぎなのだ。

では音楽としてこれを否定するかと問われれば、私は結構気に入ってこれを聴いている。
他の「スムース・ジャズ」は聴いたことがないので責任持ちかねるが、本作に限って言えば全曲気持ちよく聴け、聴いていてとても心地よい。
何より録音が良い。
特に低域の処理が上手い。
このあたりのノウハウは恐らく、すでに確立されているのだろう。
何かリラックスしたい時に、スムース・ジャズというレッテルを貼られたものを引っ張り出せば、たいてい外れることはない、そんな気もするがもちろん責任は持てない。
ただ本作に限って言えば、アマゾンで1500円程度で買えるし、これを買っても損はさせない自信がある。
女性を口説く時に、ここぞというところでどうぞ活用されたし。














(172) ネオバップ

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NO.172 2014.8.10



<ネオバップ>



2008年度のジャズ批評誌における、インスト部門三位獲得が本作購入の理由だった。
ブルー・ノートからのメジャーデビューであるが、日本盤はいきなり2000円を切る戦略的価格で、更にボーナストラック2曲が追加された。
まあ、日本以外では売れない、ということなんだと思う。
特にアメリカではこういうのはサッパリらしい。
ほとんどの曲が彼らのオリジナルで、いかにもハードバップの文法に沿ったものだ。
ファブリッツィオ・ボッソが書いたという「Happy Stroll」は黒いオルフェの焼き直しだが、ジャズではこういう事は普通に行われてあまり問題とされない。
全体に、元気があってよろしい、という感じ。
今風の、そして音のいいハードバップを聴きたい時にはもってこいだろう。
私はジャケットにも惹かれた。
季節感が今でしょう?
グアムでのジャンプ事件を思い出させるけど。

さて、今週は夏休みだ。
特にそれが嬉しくて眠れなかったわけでもないが昨夜、というか本日未明まで本を読んでいて遅い就寝だったのに、この時間には目覚めてしまった。
目が覚めるともう寝ていられないので、起きてゴソゴソ活動を初めてしまう。
早朝からこんな音楽を鳴らしているが、家人は平然と熟睡を続けている。
音楽がうるさくて眠れないとの苦情がきたことはない。
多分今後もないだろう。
子守唄ほどにも感じていないようだ。
驚くくらい寝つきもよく、毎晩8時間以上寝ているようだ。
大物である。
うらやましい。
だが私は結局4時間くらいしか寝ていない。
だというのに、今日は朝からテニスのダブルヘッダーだ。
大丈夫なのか?
どうも睡眠障害気味だな。
そういうお年頃なのだろうか。
眠剤を使ってもあまり改善されず、少し困っている。
もう少しなんとかならないものだろうか。











(173) ジャケ買い

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NO.173 2014.8.11



<ジャケ買い>



イタリアのトランペッター、フランコ・アンブロゼッティ2006年のenja録音。
ジャズ批評誌でジャケットデザインの賞を取った。
エンヤはドイツのレコード会社だが、イタリア人ミュージシャンのアルバムだとこんな洒落たジャケットになる。
思えば本作を新しくなったスピーカーで聴くのは初めてだ。
購入以来三回目くらいかな。
その程度の作品内容だと思って頂いて構わない。
ソプラノ・サックス(ゴメンナサイ、私嫌いなんです)が入っていたり、バンドネオン(手風琴)が入っていたり、ストリングスが被ってきたり、意味不明のイタリア語による語りがあったり・・・
そもそもイタリア語というやつがどうも好きじゃない。
意味は一切分からないので、響きというか雰囲気についての印象に過ぎないが、雰囲気なら圧倒的にフランス語だろう。
昔「グリーンカード」という映画で、お茶の水博士のような風貌のジェラール・ドパルデューが、ピアノ伴奏とフランス語の語りだけで女心を鷲掴みというシーンがあった。
イタリア語なら笑いを取るところだ。
イタリア映画を観るとしたら、喜劇以外は絶対日本語吹き替え版だ。
イタリア語のラブストーリーを字幕版で観るのは考えられない。
韓国語も中国語も考えられないけれど。
あと、ドイツ語も。

実は最近では英語モノの日本語字幕版も面倒だ、という話を友人としたばかりだ。
若い頃はパッと見た字幕の内容が一瞬で頭に入ってきたのに、最近では頭から一字一字読むようになった。
そうすると、長い字幕だと全部読み切れないという悲しい現象が起きる。
頑張って全部読み終えても、必死に見ているのは字幕だけで肝心の映像は全然疎かになっていたりするのだ。
勢い、吹き替え版へ行くようになってきた。
でなければ、一度吹き替え版で内容を把握してから字幕版へ、という手間のかかる事態となる。

閑話休題。
まあ、中には2曲ほど傾聴に値するトラックもあるにはある、というのが本作の真相だ。
たとえ中身がそうでも、本作のこのジャケットは所有するだけの価値がある。
ジャケ買いというヤツだ。
だからLPレコードならもっとずっと良かったのに。
今、商業音楽はダウンロードとかの話になっているが、それにはジャケットは付いてこないのだろう。
何とも味気ないことである。
音が良くても悪くても、私はそんなものは絶対買わない。


アンブロゼッティのenja作品にはもう一枚、とってもいいジャケットがある。


ambrosetti 2

その名もズバリの「THE WIND」。
ね、手元に置いておきたくなりませんか?
アンブロゼッティについて、マイルスはかつて「黒人のハートを持った白いトランペッター」と評した。
ダスコ・ゴイコビッチと共にエンヤが強力プッシュしたトランペッターだ。
こちらはワンホーンものであり、曲、演奏とも聴くなら断然こちら。
「LIQUID GARDENS」の方は飾っておいてください。

さて、心配された台風であるが、私のところでは今の所何事も起きていないようだ。
だが、これからお盆なのに、どうも週末の天気はあまり予報が良くない。
台風の後遺症ということか。
様々計画を立ててもおられようが、皆さんあまり無理をなさいませんように。

















(174) ジャケ買いではないけれど

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NO.174 2014.8.14



<ジャケ買いではないけれど>



ジャズを聴き始めたてだいぶたち、すっかり大人になる頃には、昔買えなかったレコードを改めて手に入れたくなってくるものです。
すでにCD時代となり、街のレコード屋にLPレコードは置いていない。
でも世の中には中古レコード屋とか廃盤店とかいったものがあり、しばらくするとインターネットでも中古レコードが買える時代となっていた。
そうしたルートから、昔のウラミを晴らすというか「大人買い」というか、片っ端から買った。
そんな私を見てある知人が「あんたは箱買いだな」と言った。
それには「買うだけ買っても中身はたいして聴いちゃいまい」といった揶揄が含まれているように思えた。
実際ある程度それは事実だった。
だが、それから更に時が流れ、その頃「箱買い」した盤を今改めて、また少しずつ私は聴いている。
買う気力と体力があり、勢いで店を回れる時に買っておいて良かったんじゃないか。
昨今の如く手にとっても棚に戻すような不躾なマネを、その頃はほとんどしなかったのだ。

そうやって多くの名盤と言われるレコードを探し歩いた。
それでもなかなか探し当てられなかった盤も当然あり、本作などもそうした一枚だった。
デクスター・ゴードンの1955年ベツレヘム作品で、聴いたことすらなかったが、とにかくこのジャケットに惹かれていたのだ。
そのうちCDの廉価盤が出て、とりあえず私はそれを買った。
1000円だった。
崇め奉るように拝聴した。
探しに探した盤であるから、悪く聴こえる筈もなく、万一瑕疵があったところで聴かなかったことにしたに違いない。
そんな本作、デクスター・ゴードン「ダディ・プレイズ・ザ・ホーン」であるが、その後LPの入手には至っていない。
正確にはもう探していない、と言うべきか。

デクスターは晩年(1986年)「ラウンドミッドナイト」という結構有名となった映画に主演した。
物語はピアニストのバド・パウエルのパリでの実話を、デクスターのテナー・サックスに置き換えたというものだ。
彼の演技は相当称賛されたが、実際には演技というより「地」だろうと思われる。
それにしても大したものであることに変わりはない。
この映画には現役のジャズメンが多数出演していた。
ロン・カーター、ハービー・ハンコック、フレディ・ハバード、ビリー・ヒギンズといった面々だが、こちらはほぼ、劇中で演奏しているだけだ。
それにしても既に鬼籍に入った方々も多く、彼らの映像が見られるという点でも貴重な作品だ。
映画としても良く出来ている。
日本の「真夜中まで」よりはお勧め出来る。
まだ観た事がないという方がおいでになれば、お盆休みに万一お暇でもあれば、どうぞDVD(レンタルしてると思うが保証はしかねる)でご覧ください。

では私はこれから、ほんのちょっとした旅に出掛けてきますので、また。



dexter 2









番外編 ㉖ 緩く候

jazz爺men




<番外編 ㉖ 緩く候>



井上順主演「JAZZ爺MEN」。
諸兄にはスパイダースの井上順と言えばお分かりだろう。
本日旅行より戻り、明日返さねばならぬというので、やや無理やり観た。
もうベタでベタでベタベタだ。
この映画が「SWING GIRLS」以降に撮られたことに目まいを覚える。
がしかし、私はもう・・・・
なんという緩さか、我涙腺よ。
観ると言うなら止めはしません、ご同輩。

さて、小旅行より戻ってみれば、先だってお邪魔した横浜は「ちぐさ」のライブを主宰されていた、「Mr.ジャジー氏」よりコメントを頂いていた。
年齢不詳だがまさしく「JAZZ爺MEN」にキャスティングしたいような人物だった。
旅は出会いを生む。
それは人であったり風景であったり、または物体であったりと様々だ。
良い出会いもそうでない時もあるが、総じて言えるのは近頃良い出会いが多い。
多くなった、と言うべきか。
それは恐らく、こちらに受け入れる準備が出来てきた、という事なんだと思う。
大人になる、というのはそういう事だ。

お盆休みに京都へ行った。
この街には昔住んでいたことがある。
むしろ思い出したくない事の方が多いくらいだった。
それが変わるものなのだ。
京都はガキが行くところではない。
京都に住むには、私は若すぎた。
その頃はいい事なんか一つもなかったくらいだが、今になってみれば多少の土地勘もあり、悪いことばかりでもなかった。



京14


下鴨神社で古本市が催されると言うので、まずはそちらへ


京13


ウッソウと茂る杜。
真昼間なのに薄暗い。
いくつあるかわからないこのテント全てが、京都中から集まった古本屋さんだ。



京12


立っているだけで全身から汗が噴き出す。
そんな劣悪な環境を誰ひとり問題としていない。
そうだよな、私とて分かっていて来たのだ。
苦情を申し立てる根拠はどこにもない。
歩け、歩くのだ、前へ。
という過酷な前進を経て発見したのが上の雑誌だ。
私が生まれた頃に発行されたオーディオ雑誌である。
しかもデッド・ストック。
折り目一切なし。
私に出会うのをここで待っていたかのようだ。
クーッ、これだけで来た甲斐があった。



京10


命の危険を感じる暑さだ。
出町柳の「ラッシュ・ライフ」でビールを頂く。
やっているとは思わなかった。
お盆なのに。





俵


満足しつつ宿へ。


京8



結構有名な日本旅館である。
蛤御門の変で一度大部分を焼失した。
床の間の掛軸は室町時代の品だという。
どこの国とは言わないが、これを持ち帰るような不埒者が現れないよう願いたい。



京9


庭を眺める。
ふと、背後に新選組の気配がして振り返る。
軽く龍馬の心境だ。




京7


燭台が置かれている。
なにゆえ?



京11


夕食のおしながき。
全部読める人がいたら尊敬する。



京6


夕刻より激しい降雨。
翌朝の銀閣寺では、崩れた向月台の補修が間に合わない。


京5


この技をどうやって後世に残そう。
私が思い悩んだところでどうなるものでもない。
銀閣寺から哲学の道へ向かう頃、生まれてこの方見たこともないドシャ降りに。



京2

京3

京4


東大路丸太町のジャズ喫茶「YAMATOYA」で雨宿り。
老夫婦がやっておられる、京都最後のジャズ喫茶だ。
前回来た時とはまったく違う店になっていた。
近年大改装されたという。
奥さんというか、店主夫人というべきか、まあいいや、おばちゃんが気さくで話し好きな人で驚いた。
しばらくすると、恐らくは娘さんと思われる若い女性がゆかた姿で現れ、(おばちゃんと)交代したので更に驚いた。
お盆だ。




京1


四条大橋から見た鴨川があり得ない事になっていた。
今夜は五山の送り火だ。
こりゃダメかなあ、と多くの人が思ったことだろう。




大文字



午後八時、なんとか大文字の送り火が灯された。
よかった。
一番安堵したしたのは保存会の皆さんに違いない。
もうすでに古すぎて起源が分からなくなっているらしい。
遅くとも室町時代には行われていたという。
それも今より数が多かったとか。
送り火が消えたあとの山に、夜遅くまで青白い光が絶えなかった。
保存会の男衆が懐中電灯を照らし、後始末をしていたものと思われる。
何事も後世に伝えるというのは、生易しいことではない。















(175) 気象予報士とハウスドラマー

art taylor
NO.175 2014.8.20



<気象予報士とハウスドラマー>




酷暑の京都から戻ったら、まだ八月中旬というのにこちらはもう秋の気配だ。
たかだか数日居ただけで相当消耗し、あちこち身体にダメージが残っている私なのに、朝晩の涼しさが何とも寂しい。
じゃあどっちがいいの、という話だ。
ちょっと考えさせて頂く。

昼休みに、あるテレビ局の帯番組を見ている。
下らない事件や時事問題と同じくらいの比重を占めているのが天気の話題だ。
気象予報士の方が色々と解説などされる。
これもなかなか大変なご商売のようで、専門知識具備は当然の事として、テレビカメラの前でタレント並みに話さなければならない。
それもにこやかに面白可笑しく。
言うまでもなく、私などにはとても務まるものではない。
某ローカル局に、いっとき知人の予報士が出ていた。
癒しキャラなどと言われてもいたが、いつの間にか姿を消した。
昼の帯番組には主に二人の気象予報士が出ていた。
両方Mさんとおっしゃる。
最初に出ていたMさんの方はこれもいつの間にか出なくなり、今はもう一人のMさんに変わった。
このMさんが今年は秋が早いと言われていたが、どうやらその通りになりそうだ。

この気象予報士という微妙な立ち位置に近いのが、本作のドラマー、アート・テイラーである。
数々の名盤にサイドメンとして参加し、就中このブルー・ノートにあってはハウス・ドラマーといっていいポジションにあった。
ジャズという音楽、特にハードバップにドラムは不可欠の楽器である。
インテリ面した弁護士やら評論家なんかどうでもいいが、気象予報士Mの不在は番組的にマズいのと同じだ。
これも余人をもって代え難し、というやつだろう。

まあ、それはどうでも良い。
ドラムだ、ドラム。
中にはドラムレスの名盤もあり、それはそれで成立しているが、あくまでも寄席のモノマネ同様色物扱い、「たまにはいいか」なのであって、ドラムレスでメインの落語や漫才にはなりようがない。

無論例外もある。
小さなライブハウスなんかだと、無闇に音のデカいドラムはかえって邪魔ということもある。
頼む、ブラシでお願い、と言いたくなる。
しかしながら、ハコが大きければ大きいほど益々ドラムレスでは辛い。
そんな重要アイテムのドラムでありながら、一方でけして主役にはならない、というかなって欲しくないのも事実である。
たたき過ぎは禁物なのだ。
特に言いたいのがドラムソロだ。
やるなとは言わない。
だが、ドラムソロを延々やられるほどかなわないモノもそうはない。

そんな訳だから、ハウス・ドラマーになるには一定の資質を必要とする。
先ずは何を求められているかわきまえている事だ。
アート・ブレーキーなんかを見ればわかるように、どけどけ、オレがオレが的なドラマーは次第にサイドメンとしては声がかからなくなる。

次に大事なのは人柄だろう。
皆に好かれ、誰とでも仲良くやれなくてはとても続かない。
繰り返しになるが、ドラマーというのは普通主役ではないからだ。
主役ではない以上、そうそうワガママは通じない。
リンゴ・スターの例が分かり易いと思う。
ピート・ベストに代わったリンゴが解散までビートルズのメンバーだったのは、ドラムの腕前や特異なキャラクターも理由の一つだろうが、最も大きな要因は円満なその人柄だった。
アート・テイラーにそれを感じるのは、本作の収録曲からだ。
全て初演というわけではないが、全曲がジャズメン・オリジナルなのだ。
参加していないケニー・ドーハムが二曲も提供している。

冒頭の「シダーズ・ソング・フルート(コルトレーン作)」は余程気に入ったとみえ、前年の「ジャイアント・ステップス」への収録に続く再演となった。
また、デイブ・バーンズという有名とは言えないトランペターの起用にも、アート・テイラーの人付き合いの広さを感じさせる。
コンガのパタート・バルデスもそうだ。

このコンガであるが、かつて我が国の頭の固いジャズファンの間では「チャカ・ポカ」などと言われ、軽んじられる傾向があった。
私は以前からコンガの音色が好きで、コンガ入り盤を愛聴して来たが、先日横浜「ちぐさ」にて目前で聴くチャンスに恵まれ、改めてこの楽器のポテンシャルに驚かされた。
ミュージシャンは井谷享志氏であった。
彼が叩き出す音色、特に信じ難い低音の充実したサウンドにすっかり魅せられた。
しかし残念ながらその時聴いたような音は、どうやら録音が難しいのではないかと思う。
レコードからもCDからも、そんな音は一度も聴いたことがなかったからだ。
目前2mの至近距離でコンガを聴くチャンスがそうあるものでもないと思うが、もしも機会があればじっくり耳を傾けて頂きたい。
誰しもきっと驚かれるに違いない。
音楽好きなら、これを知らずに人生を終える手はない。

実際のところ、目の前で聴く音とレコードで聴く音にはかなりの隔たりがある場合が多いが、間違いなく損得の格差が楽器間にあり、前者代表がコンガで後者がサックスという事になろう。
本作のパタート・バルデスもその時現場で聴けばどんなだったろうと思うが、無論叶う筈もない。

ファースト・コール・ドラマーの位置にあったアート・テイラーが、ブルー・ノートに残したリーダー・アルバムは実はこれきりだ。
同じような存在のビリー・ヒギンズは気の毒にもゼロであるから、少しだけマシだったと思うしかない。
ドラマーの不遇と言ってしまえばそれまでの事なのだが、彼らには彼らなりの矜持が当然あった筈だ。
数々の名演を強力にドライブしたのは、間違いなく彼らであったのだから。
もしもその存在なくば、あの名盤もあの名曲も、なにやら五日前に開けたシャンパンの如きモノと堕すだろう。

もちろんただの偶然に過ぎないが、アート・テイラー、ビリー・ヒギンズ、二人とも仲良く65歳にて没した。
















(176) 不変か補強か Why Change

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NO.176 2014.8.22



<不変か補強か Why Change>




広島で酷い土砂災害が起きた。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
また、被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。

日本ではこのような災害が、いつどこで起きてもおかしくない状況に今なっている。
同じような環境下に展開する住宅地はそれこそ無数にある。
急に地形が変わったわけでは無論ない。
この国はそもそも平野部が少なく、総体的に山岳部の多い地形だ。
高い山脈のてっぺんが海面から突き出たと考えた方が近い。
そこに貼り付くようにして人々が暮らしてきた。
人が暮らす集落は、平野部といえど実は山体の中腹であり、その山麓は海面はるか下、日本海溝の底である。

そう、変わったのは地形ではなく雨の降り方のほうだ。
先日の京都でも、見たことがないような激しい降雨を体験した。
同じような事が、いやもっと激しい事が今度は広島で起き、きっと遠くないいつか他所でも起きるだろう。
政府、自治体は危険箇所を把握している。
しかしそれは現状不十分で、今後更に危険とされる箇所は増え続けるだろう。
それら無数にある危険箇所を把握しきったとして、それを一体どうすれば良いのだ。
土砂災害を防ぐなら砂防ダムか。
だが、それは多すぎて無理だ。
異常な降雨はいつ起きるかわからないが、だからと言って起きなければ砂防ダムなどまったく必要ないのだ。
そうしたものを公共事業でもって、まるで万里の長城の如く日本中の危険箇所に張り巡らすというのは、費用対効果の点で不可能だ。
少子高齢化、人口減少により2040年までに、自治体の半数が消滅するとの推計がある。
人っ子一人いなくなった山村に、砂防ダムだけ残ってどうするのだ。
結局、自分の身は自分で守れ、という結論にならざるを得ない。
政府、自治体も言いにくいので黙っているが、そのように、つまり自分で何とかして、と思っている筈だ。
それは言い替えれば、広島みたいな事には滅多な事ではならないと思うけど、万一の時は救助その他に全力を尽くすから、それで勘弁して頂だい、ということである。
今も昔もこれからも、庶民の命は安い。

雨の振り方が変わった、というのは誰しも実感しておられることだろう。
これが一時的な波なら、仕方ないでも済まされる。
気になるのは、この先益々変わらないかという事。
そしてこの現象とCO2と温暖化の因果関係についてだ。
関係大有り派の学者も無関係派もいる。
私なんかに判る筈もないが、どうも全く無関係とは思い難い。
だが現在日本では、CO2削減はほぼ無視されていると言って良いのではないか。
かつて世界に向けて高らかに約束した御仁がいたが、震災・原発事故後まるでなかった事のようになり、化石燃料をガンガン焚いて発電している。
変なことにならなければ良いのだが。

モダン・ジャズ・カルテットとは関係ない話が続いた。
少し音楽でも聴いて気分を変えるのも悪くはない。
改めて本作を聴いて思ったのは「不変」と「補強」についてだ。
モダン・ジャズ・カルテットはごく初期にドラマーがケニー・クラークからコニー・ケイに変わって以来、最後まで不動のメンバー構成だったグループだ。
ベースのパーシー・ヒース、そしてピアニストのジョン・ルイス、バイブ(と言うと変な事を思う人がいるといけないので、ヴィブラフォン、鉄琴である)のミルト・ジャクソンというメンバーで、はじめはミルト・ジャクソン・カルテット(略せばこれもMJQ)
を名乗ったという。

同じMJQでもモダン・ジャズ・カルテットに変えようと誰が言ったか知らないが、そうならなければ40年も同じ面子で続くことはなかったと思う。
大体ジャズのグループなどいい加減なもので、ビル・エバンス・トリオと言ったところで、不動のメンバーはピアニストのエバンスだけだ。
もうひとつのMJQ(マンハッタン・ジャズ・クインテット)も同じく、不変なのはピアニスト(バンマス)のデビッド・マシューズのみ。
どんどん交代ないし「補強」する。

元祖MJQはしなかった。
このチームのキモはジョン・ルイスの作編曲と、ミルト・ジャクソンのヴィブラフォンだとされる。
まあ、言ってみればミルト以外の楽器は、おとなしくしていてくれれば誰でも良かったのかもしれない。
ジョン・ルイスのピアノの重要性を語る人もいるが、もう一度聴いてみてくれ。
ドラムもベースもそうだが、今となってはもう古くて古くて。

最後に、私もスピーカーに補強を加えたので見てください。
補強と言うからには、前より音が良くなっていないとダメだが、どうだろう。
良くなったような気もする。
いや、ホーンのスロートにネジ4本で20キロ近いドライバー(発音器)がぶら下がっているよりは、少なくとも精神衛生上ずっと良いのである。
尚、黒い物体を下から支えるこのパーツ、ホームセンターで200円程度の品だ。



補強














(177) 諦めきれなくて

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NO.177 2014.8.23



<諦めきれなくて>



冒頭の曲、ピアニストのビリー・テーラーが書いた「イージー・ウォーカー」が好きだ。
本作はドラマー、ジェフ・ハミルトンのリーダー作であるが、本作でピアノを弾いたラリー・フラーと再度組み、ラリー・フラー名義で「イージー・ウォーカー」のタイトルでも出している。
本作はライブ盤で、この曲が持つダルさをより上手く表現していると思う。
ラリー盤の方はビクター入魂のXRCD2仕様で、音の良さを喧伝するが、特にどうという事はない。
能書きで音が良くなれば大したものである。

ジェフ・ハミルトンはバスドラのキレ良く、ベースと拍子が合う瞬間がたまらなく良い。
言いたいことを分かってもらえるだろうか。
きっと専門用語があるに違いないが、素人の私は知らない。
この、バスドラとベースの拍子合わせで出現する空気の動きが欲しくて、我家のスピーカーは15インチウーハー二連となった。
たいていオーディオというものは、全て良いというわけにはなかなかいかないものだ。
この音をどうしても出したいとなれば、あの音は我慢しなければならなくなる。
大抵そうしたものだ。
諦める事を教えてくれるのもオーディオである。

本日は庭でBBQの予定であったが、どうも日本中の空気がそんな事してる場合か?と言っていた。
それで中止。
でも、次第につまらなくなってきて、一緒にやる筈だった友人とこっそり宴会でもやるか、という話になっている。
隠れ宴会。
まあ、どっちにしても飲むらしい。


と言うか、飲み、今帰りました。
たいへんご馳走になりました。
タテマエというものはどんな事にもあり、
立ちふさがってゆく手を遮る時もある。
あの日のことを思い出し、一番良い選択をしてください。
自分がゆきたい道がもしも通行可能なら、
それが一番良いかもしれない。
それが無理なら、仕方ない。



















(178) Outward Bound

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NO.178 2014.8.25



<Outward Bound >




ファイブ・スポットの前年、1960年に録音された本作のトランペッターはブッカー・リトルではない。
フレディ・ハバードである。
もしどうしてもエリック・ドルフィーにトランペッターが必要なら、私はハバードの方が合っているように思う。
リトルは夭折したトランペッターのサイドストーリーばかりが先行してしまい、彼の実像からフォーカスがずれてしまった。
ドルフィーもハバードも皆死んでいる今となっては、「夭折」はもうどうでもいい話ではないだろうか。
ドルフィーと演った時のリトルは、ドルフィーに付き合うというか、ついていくのに必死でどうも痛々しい。

ドルフィーのリーダー作品としては、最初期になるであろう本作が私は一番好きだ。
それは全体に分かりやすいというのもあるが、何といってもドルフィーのオリジナル「GW」の存在によるものだ。
ロイ・ヘインズのリム・ショットで始まるこの曲の、捻れたようなメロディは相当強烈に記憶に焼き付く。
最初聴いたのが何十年前だったかもう忘れたが、何か異様なモノを聴いた気がしたという記憶のみ残っている。
要するに第一印象は特別良くなかったのだ。
それを何度か聴くうちに、思いが変わった。
クセになるまずさと言うか、非常に希なことだ。
この曲の一番好きな箇所は、ジョージ・タッカーのベースソロが入ってくる部分だ。
なにか非常にジャズを感じさせられる。
説明し辛いが理屈ではなく、異性のちょっとしたしぐさや表情に感じる色気と似たようなものだろう。
説明は難しい。

個人的最重要盤に絶対入る本作であるが、このジャケットだけは他に方法がなかったものかと思う。
ドルフィーのジャケット全体にあまりいいのはないのだが、いくらなんでもこれは売れないだろう。
「GW」はドルフィーがかつて所属したバンド「ジェラルド・ウィルソン・オーケストラ」に因んだもので、「ゴールデン・ウィーク」の略ではない。









(179) マジック・カーペット・ライド

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NO.179 2014.8.27



<マジック・カーペット・ライド>




正直なところこのバンド、フォア・プレーなど少しも好きではないし、せめて同じバンドのギタリストなら、リー・リトナーより私は断然ラリー・カールトン派だ。
だが、このアルバムに収録された「マジック・カーペット・ライド」だけは特別な存在なのである。
もしも聴いたことがないという方がおられるなら、今更まるまるこのCDを買うことはないので、なんとかしてこの曲だけ聴いてもらいたい。
名曲だ。
なんとなくふやけた音色と顔つきのリー・リトナーも、この曲についてだけは許せる。

マジック・カーペット・ライド。
魔法の絨毯の乗り心地と言えば、シトロエンのハイドロニューマチック・サスペンションや昔のネコ脚ジャガーなんかを普通連想するだろう。
それはそれで正しいと思うが、それだけでもない。
国産の自動車、特にトヨタ車など特に何事もなく、今や普通に魔法の絨毯に乗っているようだ。
それらと対極にありそうなイメージなのがドイツ車である。
なんとなくタイガー戦車とかユンカース爆撃機なんかのイメージが先行するけれど、これも必ずしもそうとは限らない。

我家にドイツのオープンツーシーター、ボクスターという車があり、普段その存在を完全に忘れている。
若気の至りというべき事情で、今世紀初頭に買ったものだ。
この車が意外に乗り心地が柔らかいのである。
それは偶然年式によるものであるらしく、その後イメージ通りのガチガチな足回りになったようだ。
ガチガチの方は乗ったことがなく分からないが、今なら勘弁してもらいたい類のものだろう。
だが、若気の至り当時はそんな分別ある筈もなく、なんか思ったよりふにゃふにゃしてないか、などと訝しくさえ感じていた。
その頃は自分が車好きと何やらカン違いしていたようで、更に笑うはマニュアルトランスミッションを私は選択した。
それから十数年経つも、走行距離は1万3千とかで、年間千キロも乗っておらず、要するにただ置いてあるだけに近い。
そうなると冷えてきた男女交際のような妙な焦りがある。
そろそろ電話しないとマズイ的な感覚でしょうか。

本日、そんなわけで久々にエンジンをかけようとしたのだが、どうもこいつは完全に死んでいた。
バッテリーだろうとすぐに分かった。
同じ事が過去何度かあったからだ。
ただ、今回前のと違うのは、まったく何の反応もないのである。
完全に放電してしまっている。
自力ではなんともしようがないので、JAFに救助を依頼した。

待つ事しばし、JAFの青年到着。
説明によればエンジンをスタートさせるのは簡単であるが、その後バッテリーを充電するか交換する必要がある。
その判断と作業はディーラー等になり、JAFでは出来かねる。
エンジンスタート後、ディーラー等へ行くまでの間に、バッテリー不具合によりエンストする恐れあり。
以上である。

いやー、まいったな、ディーラーというのが我家から遠く、20キロ弱の彼方にある。
どうしたもんか・・・悩んでいたらJAF青年曰く、エンジンをスタートしディーラーへ向かってくださいと。
私が後をついていきますから、万一エンストしたらハザードを点け出来るだけ左に寄せてください。
そんな・・・あなたにもこのあと仕事があるでしょう?
これが私の仕事です。
あまりのかっこよさに倒れそうになりながらも、JAF青年の指示に従いディーラーを目指す。

当然いつもよりクラッチ操作が慎重になる。
JAF青年の作業車はやけに遅く、バックミラーを見ながら這うように進む。
いつもよりディーラーが遠い。
そんな筈はないのに。
やっと到着し、私は迂闊にもエンジンを止めた。
サービスの人がやってきて、再スタートしようとしたが、もうエンジンはかからなかった。













(180) テクニックと集中力

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NO.180 2014.8.29



<テクニックと集中力>




アル・ディメオラ、ジョン・マクラフリン、パコ・デルシアによる炎のアコギライブである。
あらかじめお断りしておくが、本作はどちらかと言うと(殆ど)ジャズではない。
だが、間違いなく傾聴に値するものだ。
特にアコースティックギターがお好きな向きには、自信をもってお勧めする。
とりわけ一曲目の「地中海の舞踏」を聴いてほしい。
この曲はアルとパコ(と書くとなんかどうもだが)のデュオで、マクラフリンは参加していない。
右がアル、左がパコだ。
「エレガント・ジプシー」におけるスタジオバージョンと聴き比べるのも一興ではあるが、こちらのライブバージョンの方が断然熱く録音も良い。
これは結構まれな話で、演奏も録音もライブが勝るケースはそんなにない。

驚くべきは彼らの安定した運指だ。
スタジオバージョンよりも更にアップテンポでありながら、まったく乱れず、ノーミスで最後まで押し通す。
これが生身の人間が人前で弾くギターか?
鬼気迫る、とはこういう事だ。
尋常ではないテクニックと集中力。
フラメンコ・ギターの名手、ビセンテ・アミーゴが言っていた話だが、こうした集中力をステージで出すのに、まる一日の精神的調整を要するそうだ。
では、このテクニックを身につけるには、どれほどの時間を要したのだろう。
もちろん想像もつかない努力が背景にある筈だ。
そしてもう一つ確実に言えるのは、必要とされるのはそればかりではないという事で、ミもフタもない話だが100年練習したところで私にこのようなギターは弾けない。
改めて言うことでもないが。

昔学生バンドでギターを弾いたことがあった。
録音が残っている。
最早笑うしかない代物だ。
笑うといっても嘲笑なんだが。

どうも秋風が立ち始めると、気分が下降しだしていけないな。
前向きに行くね。
多少無理しても。

何はともあれ、集中力は適度な緊張によってもたらされる。
この「適度」というのが難しく、度を過ぎれば所謂アガッた状態となり、まったく思うようなパフォーマンスを発揮できない。
逆に緊張感が足りないと、反応の鈍いダレたイメージを見る者に与えるだろう。
日頃のたゆまざる鍛錬を重ねた上で、本番で自分が演じるべき役に成り切る。
これは音楽、スポーツ、演劇は言うに及ばず、人前で何かを行う者に要求される共通の能力と言うべきものだ。

アマチュアのテニス大会といえど、適度の緊張感がもたらす集中力を要する事情は同じだ。
試合までに十分な準備が必要な事も。
さらにあるコーチが言っていた。
練習では全てのショットを一々考えて打て。
だが、本番ではもうショットを考えるな。
ショットは体が覚えている。
そんな事に頭を使っていてはダメだ。
考えるのは相手(敵)が何を考えているか、それだけでいい。

実はもうじき大事な試合があるんですよ。
いまいちやる気が出ないので困っている。










(181) アメリカ

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NO.181 2014.8.31



<アメリカ>




ジャズを生んだアメリカ。
ロックを生んだアメリカ。
JBL、マーク・レビンソン、アルテック、ウエスタン・エレクトリックを生んだアメリカ。
アメリカなしに私のミュージック・ライフは成り立たなかった。
それを認めた上で、私はアメリカが嫌いだ。

欧米列強がアジア、アフリカ、その他で犯した犯罪を償わせたい。
とりわけアメリカが太平洋戦争末期に、我が国に対して行使した国家ぐるみの戦争犯罪を償わせたい。
だが、私は、そして私の祖国はまったく無力であり続け、彼らの罪を糾弾するどころか依然として我らは属国のままだ。
来年であの敗戦から70年も経つというのに、この国はまだアメリカの占領下にあると言って良い。
その証拠に、我が国にはアメリカの基地がたくさんあるではないか。
我が国のリーダーが戦死者を、そしてありもしなかった罪に問われ吊るされた同胞を弔えば、「失望した」などと言われる始末ではないか。
これは独立国のありようではない。
日米安全保障条約、そして核の傘とは何か。
逆に見れば、「お前らはこちらの射程圏内にある」と言うことでしかない。
我が国が無条件降伏を受け入れた70年前のニューヨークタイムズに、次のような論説が載せられた。
「この醜く危険な化け物(日本のこと)は倒れはしたがまだまだ生きている。我々は世界の安全のためにこれから徹底してこの怪物を解体しなくてはならない(文芸春秋九月号162頁 by石原慎太郎)」
そしてそのアメリカが逆に我が方の射程圏内だった事は、真珠湾攻撃以降一度もないのだ。

まあ、あれだ、こんな事は大人なら誰でも知っていることで、今更大きな声をあげるような話ではない。
くやしいが。
私もそれらを認識した上で、アメリカが生んだ音楽を愛してやまない。
雅楽やお琴が好きだったことはない。
これからもない。
フォークソングやロックからはじまり、やがてジャズにのめり込んだ。
戦争中なら「敵性音楽」とされたものだ。
だが、私はジャズが好きなのである。
この矛盾を私はどうしたらいいのか分からずに来た。

お前は白人コンプレックスだ、と言ったヤツがいた。
ばかめ、それは自分のことだろう。

きっと生涯答えは見つからないのだ。
心の片隅にどこか疚しさを感じつつ、こうして死ぬまでジャズを聴き続けるしかない。
くそ。
八月も今日で終わりか。

許されよ、許されよ。
アメリカは嫌いだから。













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音楽がある限り

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