NO.128 2014.3.1
<Voice Of The Theatre> 自分でも驚くほどいい歳になった。 だがいまだに現役であって、つまり生きるために働いているのが私だ。 仕事が好きかと問われるなら嫌いだ。 嫌いだが働いている。 もっとも世間では多くの人が、否応なくそのように不本意な日常を甘受している。 だから自分だけが不幸だなどとは思ってもみないが、不本意は間違いなくストレスを生み、ストレスが精神を圧迫しささくれ立たせるのもまた事実である。 そんな時にはジャネット・サイデルの歌が良く効く。 ご同輩のちょっと疲れた夜に、本作をお勧めします。 ボーカルは独立した特別なジャンルと考えて良い。 ジャズファンの中にはボーカルをこよなく愛するという人もいて、高じるとそれしか聴かなくなっていたりする。 そんなジャズボーカル愛好家のお宅にお邪魔したことがあった。 その人とは一面識もなかった。 そして数か月前、既に亡くなっていた。 その時彼はまだ四十そこそこではなかったろうか。 私は知り合いのレコード店主の斡旋で、その方のオーディオ一式を買い取りに行ったのだ。 中心部の一等地にある古い大きな一軒家だった。 広いリスニングルームに故人の思い出の品々が溢れていた。 趣味に相当の拘りが感じられた。 当然のようにそのオーディオも趣味性の強いものだった。 それはアルテックA7を300Bの真空管アンプで鳴らすというもので、デジタル系は存在せずアナログプレーヤーはガラード401を使用した自作品だった。 そのキャビネットにはA7のシールから起こしたと思われる「Voice Of The Theatre 」の金属製プレートが取り付けられていた。 何はともあれ、その装置から音を出してみなければならなかった。 だが、操作方法がわからない。 自作と思われるプリアンプの、真鍮製プレートに並んだつまみに表示が一切ない。 私には電源の入れ方すらわからなかった。 同行したレコード店主が未亡人に、息子さんを呼んでくれるよう声をかけた。 多分三十代だった彼女は、エプロン姿で忙しそうにしていた。 既に売却を決めたその家を、間もなくマンション業者に明け渡さなければならないとのことだった。 やがて息子さんがやってきた。 中学生くらいだったろうか。 彼は敵意に満ちた目で私達を見たが、レコード店主の依頼に応じ操作を始めた。 まず最初に彼は引き出しを開け、白い手袋を取り出し両手にはめた。 きっとそれが、父親と自分に共通の、いつもの作法だったのだろう。 アンプに火を入れ、何をかけますかと彼は聞いた。 部屋にはジャズボーカルのオリジナル盤が山のようにあったが、私は持参したジェリー・マリガンの「ナイト・ライツ」をかけてもらった。 少なくとも遺品のレコードをかけてもらう空気ではなかった。 その時どんな音がしたか、今はもう覚えていない。 だが、その装置一式はそれからずっと我が家にある。 前に使っていた4344のシステムはついにその音を越えることがなかった。 良い音だ、ということである。 だが、私はこのシステムを今だに自分のものと思えずにいる。 あの時まだ若く、それ故なすすべなく大事なオーディオを持って行かれた彼。 その無念な思いと眼差しを私は忘れていない。 あの子はきっともう社会人になった筈だ。 もしも彼が連絡してきて、父の遺品を取り戻したいと言うのなら、私は喜んでお返ししたい。 仲介したレコード店は健在であり、その店主は私に連絡する方法を知っている。 だからそれはいつでも可能だ。 それまでこの装置を良いコンディションに保ち、大切に保管させていただく心算だ。
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NO.129 2014.3.7
<演奏家> 山中千尋嬢のデビュー作である。 本作の上梓は澤野商会最大の手柄かもしれない。 当時は30人規模のライブハウスにも出ていたので、間近で彼女を見たことがある。 ピアニストと言えば比較的スタティックな存在感の人が多い中にあって、最大級のダイナミックなオーラを彼女は発散していた。 その後当然のようにメジャーに移籍し、有りがちな事だが、本作を凌ぐ作品を彼女はまだものしていない。 日本人の女性ピアニストはクラシック出身が多く、山中千尋さんも例外ではない。 そしてよく考えてみれば、そうしたピアニストは日本人にも女性にも限らず多数あり、あのビル・エバンスですらがそうなのだ。 この難しい楽器を自在に操るには、クラシック的訓練が普通は不可欠であるという事か。 難しい割にジャズで報われないのも、この楽器の持つ特性である。 ピアノはある意味ジャズに向いていない。 半音の半音といった微妙な音を出す事が出来ない。 そして意外に思うかもしれないが音が小さい。 万一トランペットとのバトルになれば、ピアノには到底勝ち目がないのだ。 だからだろう、ピアニストには知的でクールなイメージがどうしても付きまとう。 ピアノにも情熱はあるが、その炎はアルコールランプのようにいつも青白い。 どんなに燃えようとも、絶対に赤々と燃えはしない。 だから『情熱大陸』を奏でられるのはバイオリンであって、けしてピアノではない。 挙げ句の果てにホーン入りのバンドにあっては、ピアノは常にリズムセクションである。 ドラムやベースの仲間にされる始末なのだ。 苦労して修得しても、どうも割に合わない。 それなのになに故であるのか、彼女ら日本人ジャズピアニストに代表される、そして少なくはないピアニストがクラシックから転向するのは。 逆は聞いたことがない。 幼少より厳しいレッスンに耐え、ピアノを自家薬篭中のものとした頃、彼女らはジャズと出会うのである。 その時、ある種の人がジャズのとりこになり、さらにこう思う。 なにこれ?素敵な音楽じゃないの。私が学んできた音楽よりずっと自由でスリルがあるわ。 そしてこうも思う。 これなら私にも出来るかもしれない。 いいえ、私もやってみたい! ピアノを操る技術ならすでに完成されている。 あとはジャズの文法を少し身に着けるだけだ。 そうしてジャズピアノを始めてみると、自分が今までやってきたピアノはいったい何だったのかと思えてくる。 とにかく何が何でも譜面通りに弾かなければならないクラシックと違い、ジャズピアノのアドリブの楽しさときたら、まるで世界が違うのであった。 一方でジャズに関心を示さない人もいる。 黙々とクラシックピアノを弾き続けるのだが、この分野のピアニストはジャズより更に需要が少ないだろう。 だから彼女らはピアノの教師になるか、あるいは趣味でピアノを続け、年一回の発表会にすべてをかけるしかない。 先だってこの種のコンサートに行く機会があった。 バイオリン、ビオラ、チェロ、そしてピアノによる演奏会だった。 ロングドレスに着飾ったピアニストは、幸せそうにスタインウェイのフルコンサートを弾きまくった。 スタインウェイは実にゴリゴリとゴツい音を響かせた。 彼女の表情はあくまでも晴れやかであり、自分が続けてきたことへの自信と満足感に溢れていた。 きっとどちらでも良いのだ。 きっとどちらもこの上なく楽しいに違いない。 自分がこれだと思える音楽と楽器に出会い、続ける幸せ。 演奏する歓び。 これは演奏家にしか分からないことだ。 それをものにするには経済力と努力が必要であるが、 同時に運と才能も必要だ。 彼女らはそのすべてがそろったんだなあ。 そしてこうも思った。 オーディオとは違う世界であると。 オーディオ雑誌『ステレオサウンド』の主筆であった菅野沖彦氏はこう言っておられた。 オーディオ装置から出る素晴らしい音楽は一つの芸術である。 レコードからそんな音を引き出す人はレコード演奏家である。 気持ちは分からないでもない。 でも私は少し違う気がする。 オーディオマニアなどそんな大したものではない。 菅野さんには弟がいる。 有名なジャズピアニスト、菅野邦彦氏である。 兄は弟の演奏を聴き、ピアノを諦めたという。 レコード演奏家発言は兄貴の負け惜しみだろうな。
NO.130 2014.3.12
<ラジオの日々> ビタースィートサンバ。 ハーブ・アルパートとティファナブラスである。 我々の世代なら誰でも一度は聴いたことがあると思う。 この曲は、有名なラジオの深夜放送のオープニングナンバーだった。 特別真剣に勉強していた訳でもないのに、日付が変わるまで起きていて、ラジオだけは真剣に聴いていた。 そのことで世界と何か繋がりが持てたような気がしていた。 そしてラジオを通して、電波の向こうにある世間というものを覗き見ていた。 それが後日の何か役に立ったかどうか、それはわからない。 だが、一生記憶に残る何曲かの音楽との出会いがあった。 ラジオはほとんど唯一の音楽的情報源だった。 しかし残念なことにまるごと一曲かかることはなく、しかも最後の方はCMが被さったりするのだった。 ラジオと言えばAM放送であり、NHKのFM放送が始まったのは高校生になってからだ。 伯父に買ってもらったステレオセットで聴くNHK-FMは何故かノイズまみれで、ディスクジョッキーの生硬な語り口がリスナーをしらけさせた。 かかる曲の多くがクラシックだったこともあって、FMはほとんど聴くことがなかった。 後年ステレオのコンポを自力で購入した際に、テクニクス(ナショナル、現パナソニック)のFMチューナーを導入したのだが、付属のフィーダー線アンテナで受信するFM放送にはやはりノイズが混入していた。 そこで私は5素子の巨大なFMアンテナを下宿の窓の鉄柵に設置したのである。 このことにより、鮮明なFM放送の受信が可能となった。 NHK-FMでは相変わらず「夕べのクラシック」やら「今日の邦楽(歌謡曲にあらず)」やらを放送していたが、当時住んでいた関西には民放のFM大阪があり、音楽主体の番組が多くあった。 それもジャズを含むポップス音楽を、たいていはハショルことなく終わりまでかけるのである。 「FMレコパル」や「FMファン」といった専門誌があり、相当前から番組表が出ていた。 中にはレコード発売前の新譜、それも売れ筋をまるごと放送するような番組すらあった。 レコードの売り上げに影響しないのだろうか。 気に入ったら買ってくれという事だろうか。 だが私は余程のことでもない限りレコード購入にまで至ることはなく、とにかく有難いことこの上なしな番組であった。 その太っ腹ぶりに歓んだ私は、片っ端からカセットデッキでそれらを録音した。 LPレコードをどんどん買うような力はまだなかった。 しかしカセットテープならその十分の一の投資で済むのだ。 そして万一気に入らなければ、別の曲に差し替えることだって可能である。 そうこうするうちに、カセットテープのコレクションは膨大な分量になり、それらのほとんどが今でも手元にある。 その中にストーンズの特集を録音したテープが数本あるが、これにはまいった。 大阪は日本橋のちょっと怪しい電気店で買ったフジフィルムのカセットテープで、非常に安かったので私は大量にこれを購入した。 こいつは一応録音も出来て再生も可能なのだが、片面をかけ終わるころ、テープの磁性体がヘッド(読み取り装置)にべったり付着して異音が鳴りだす代物だった。 要するに偽物をつかまされたのだ。 今のことは知らないが、大阪とはそうしたところのある街だった。 もっとも怪しげなのは大阪に限らない。 京都のある大学の教授が河原町で買ったジャケットのボタンは糸で縫い付けられておらず、あろう事か糊で貼ってあったという。 ジャケットのボタンをとめる習慣がない彼は、数年後何かの都合でとめたときにはじめて気付いたのだとか。 もう時効であると笑っていた。 ところで当時私の身近にはテレビというものがなく、10年ほどの間テレビからの情報が途絶しているため、普通の日本人なら当然知っているような常識を知らない場合がある。 もっともそれらはどうでもいいような話なので、たいていそれ程困りはしない。 ラジオの深夜放送というものがまだ存在しているのかどうか知らない。 だが、まだやっていたとしても、私はもうそれを聴くことはまずないだろう。 何しろ夜は九時頃に寝てしまうものですから。
<番外編 ⑱> マレーシア航空のボーイング777が消息を絶っておよそ二週間になる。 連日ニュース番組等で色々言っているが、まるで要領を得ない。 堂々と空を飛んでいたあんなでかい物が、何の痕跡も残さず姿を消すだなんて、そんなばかな事があるのか。 そんな事が可能なら、戦闘機のステルス性など簡単な話になってしまうではないか。 何か裏がありそうだ。 世界中を驚かす急展開が絶対にある。 飛行機という乗り物は時々落ちる。 これは事実だ。 だから列車事故で落命するより確率が低いとか言われても、ハイそうですかと私は言う気にならない。 できれば一生乗りたくないのが飛行機だ。 それは自動車事故で死ぬ事だってある。 事実クリフォード・ブラウンやスコット・ラファロらはそれで命を落としているのだ。 しかし、自動車ならガス欠しようがエンジンが故障しようが、少なくとも落ちる心配はない。 だが飛行機はそういう訳にはいかず、ひとたび落ちればまず助からないと思った方がいい。 クリフォード・ブラウンらの頃は、ツアーは自動車だった。 ある町での公演が終わると、楽器を自動車に詰め込んで、広いアメリカ大陸を次の町を目指して走ったそうだ。 それは過酷なツアーであったという。 その後、ミュージシャンの移動は飛行機が普通になった。 ジム・クロウチが飛行機事故で死んだのは1973年の事だ。 「リロイブラウンは悪いやつ」「アイ・ガッタ・ネーム」「タイム・イン・ア・ボトル」等々、たくさんの名曲を書いた。 ジャケットでご覧の通り、鬼瓦と言うかマグマ大使のゴアと言うか、風貌はちょっとコワモテだが、その歌声は実に素晴らしい。 もしもまだ聴いた事がないなどと言う人がいるなら、それはいささかもったいないと断言する。 ほかにもいる。 ジョン・デンバーも飛行機事故で死んだ。 レイナード・スキナードに至ってはバンドが消滅した。 ほんと、乗りたくない。 事故だけでなく、テロやハイジャックまであるのだ。 これはもう杞憂では済まされないのではないか。 でも、今後もきっと乗るんだろうなあ。
<番外編 ⑲ ホーン泣き> 我家のメインスピーカーを4344から一点モノに変更して、4年が経過していた。 その間の顛末について、大体のところはお話ししたつもりだ。 納品以来不具合の連続で、販売店とメーカーの対応の遅さがこれだけの年月を既に過去の出来事とした。 最後に残ったのが、Y音響のウッドホーン問題だった。 集成材のブロックを削り出して作るのだというY音響のホーンは一つ数十万する。(ホーンのみ、もちろん音を出すドライバーは含まない) 物量投入の成果で、所謂ホーン鳴きがほとんど発生しないという話だった。 それが乾燥のせいだと言うが、割れだした。 当然、なんとかしてくれと販売店に泣きつく。 メーカーと販売店の協議で修理という事になった。 「割れた集成材を修理?」 そんなことが可能だとは思えなかった。 だが、私にはもう強いことを言う気力が残っていなかった。 ホーンは修理され戻ったが、三か月たち再び割れた。 それがこの画像である。 メーカーでは割れた箇所を研磨し、その部分のみ再塗装したようである。 抜本的な修理(出来る筈はないと思ってはいたが)をしたのではなく、表面的にごまかしたのだ。 もうこれは頑張るしかない。 私は言うべき事を言ったのである。 そしてホーンは再び再製作されることとなった。 本日、遂にそれが我家にやってきた。 Y音響製ウッドホーン特注色。 4年前に初めて来たそれは、輸送事故で無残な姿となっていた。 次に来た子はひび割れてしまった。 今度こそ・・・と思う一方で、また何かあるのではないかと取り越し苦労などしたとしても、それはある意味仕方のない事ではありませんか? 私は驚いた。 いや、もう驚きはしなかった、と言うべきか。 そうなのである。 まったく、実に、なんというか、期待を裏切らないのである。 箱から出された新ホーン、その表面にはあり得ない塗装ムラが・・・ マジですか? マジなのである。 ホーンは泣きながら箱に戻され、去って行った。 春尚遠し。