NO.15 2011.11.27
<ベイシーの大爆発> 原爆のキノコ雲を使ったこのアルバムのジャケットに違和感を持っていた。 アメリカの傲慢がキノコ雲の向こうに見える。 ベイシー本人を含め関係者は日本国と日本人などに殆ど関心がなく、従って配慮の必要性を一切意識していない。 たとえば日本人ミュージシャンがいて、レコードジャケットに旅客機が貿易センタービルに突入し爆発する写真、いや、そうではないな、ゼロ戦が戦艦アリゾナに魚雷をぶち込む写真を使ったとする。 それを彼らが看過するだろうか。 日本人は少しばかりお人好しに、あるいは卑屈になり過ぎてやしないか。 彼らがどのように開き直ろうとも、あれは戦争犯罪である。 しかしながら残念な事ではあるが、この人類史上稀に見る残虐な犯罪行為を裁くには、次の戦争で彼らに完勝するまでその機会を待たねばならず、それはそう簡単な話ではない。 だが、どれほど時間が経とうとも、いつか必ず白黒着けずには置かない。 日本人ならこの事を忘れてはなるまい。 今はただ、明確な謝罪を要求する。 カウント・ベイシーという人がどんな人物であったか、それは残念ながら私には全くわからないが、少なくともこれを見る限り思慮深い人物であった筈はない。 もっともジャズメンであるのだから、それでオッケーだとも言えるのだが。 しかし、そのような扱いの同じ日本人でありながら、ニックネームなど賜って嬉しがっているのはどうかと思う。 アゴアシ付きで日本に呼び、下にも置かない対応を取ればニックネーム(それも何やらなさけないものだが)の一つくらい付けてくれるであろうが、それを家宝でもあるかの如く有難がっているというのでは、あまりにも矜持というものがなさ過ぎやしないか。 気前のいいタニマチに少しシニカルなあだ名を付けただけの話だろう。 自分の名を冠した店を営む店主に。 今年は冬の訪れがやけに遅い東北地方だという。 一度はその音を聴いてみたいと思っていた店があるのだが、有名人をとても大切にする店主なるも、無名の日本人に対してはエラく尊大な態度らしいからな。 やめておいた方がよさそうだ。
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NO.161 2014.7.14
<祭りのあと> 一か月に及ぶ戦いも遂に終わる日が来た。 下馬評通りの結末となり、アメリカ大陸での大会における初の、ヨーロッパのチャンピオン国となったドイツ。 そのサッカーはいつもつまらないと言われ続けてきた。 秩序を重んじたチームサッカー、それは次の展開が素人にも読みやすい。 サッカーはジャズであり、アドリブだと私は常々思っていたが、もしもマンハッタン・ジャズ・クインテットの音楽がジャズと呼んで良いものなら、ドイツのサッカーもまた否定されるものではない。 マンハッタン・ジャズ・クインテットの音楽は、デビッド・マシューズによって書かれたアレンジ通りに演奏された。 それはジャズとは言えない何か別のものだ、と批判を受けた。 だが、それ故に常に完成度が高く、安定していて、レベルが高かった。 まさにドイツサッカー的なこのマンハッタン・ジャズ・クインテットを生んだのは、実は日本のレコード会社である。 日本とドイツの国民性には共通点が少なくないと言われる。 几帳面で勤勉で約束を守る、そんな姿勢が戦後の復興と経済成長を生んだのだと思う。 だが、ことサッカーに限って言えば、共通している点は共に入れ墨をよしとしない事くらいか。 実際、入れ墨なしのサッカー選手なんて、日独以外では世界的にはむしろ珍しい。 今大会を見ていても、どいつもこいつも入れ墨だらけだった。 早々と敗退した我が国代表に対し、ジャニーズと区別がつかないような外見ではだめだ。 戦士の象徴として入れ墨入れるくらいの覚悟がないとだめだ、と私も勝手なことを毒づいていた。 まあ、そんな事でサッカーが強くなるなら安いものが、そう単純なことでもあるまい。 さて、日本は4年後に向けてどんなサッカーを志向したら良いだろう。 前回優勝のスペイン的パスサッカーを日本は目指してきたが、それは疾うに研究され尽くしていた今大会ではまったく通用しなかった。 ドイツ型サッカーも次大会で同じ運命をたどる可能性はあるし、日本には体格的にとても難しいのではないか。 私が時期代表監督なら、オランダがやった5バックを採用する。 5バック2ボランチでガチガチに自陣を固め、攻撃は3枚のみのカウンターに徹する。 サイドは滅多なことで上がらない。 耐えに耐える「おしんサッカー(古いね)」だ。 日本が世界に通用する方法が本当にあるかどうか分からないけれど、今はそれくらいしか思いつかない。 とにかく祭りは終わった。 明日からつまらなくなるなあ。
NO.172 2014.8.10
<ネオバップ> 2008年度のジャズ批評誌における、インスト部門三位獲得が本作購入の理由だった。 ブルー・ノートからのメジャーデビューであるが、日本盤はいきなり2000円を切る戦略的価格で、更にボーナストラック2曲が追加された。 まあ、日本以外では売れない、ということなんだと思う。 特にアメリカではこういうのはサッパリらしい。 ほとんどの曲が彼らのオリジナルで、いかにもハードバップの文法に沿ったものだ。 ファブリッツィオ・ボッソが書いたという「Happy Stroll」は黒いオルフェの焼き直しだが、ジャズではこういう事は普通に行われてあまり問題とされない。 全体に、元気があってよろしい、という感じ。 今風の、そして音のいいハードバップを聴きたい時にはもってこいだろう。 私はジャケットにも惹かれた。 季節感が今でしょう? グアムでのジャンプ事件を思い出させるけど。 さて、今週は夏休みだ。 特にそれが嬉しくて眠れなかったわけでもないが昨夜、というか本日未明まで本を読んでいて遅い就寝だったのに、この時間には目覚めてしまった。 目が覚めるともう寝ていられないので、起きてゴソゴソ活動を初めてしまう。 早朝からこんな音楽を鳴らしているが、家人は平然と熟睡を続けている。 音楽がうるさくて眠れないとの苦情がきたことはない。 多分今後もないだろう。 子守唄ほどにも感じていないようだ。 驚くくらい寝つきもよく、毎晩8時間以上寝ているようだ。 大物である。 うらやましい。 だが私は結局4時間くらいしか寝ていない。 だというのに、今日は朝からテニスのダブルヘッダーだ。 大丈夫なのか? どうも睡眠障害気味だな。 そういうお年頃なのだろうか。 眠剤を使ってもあまり改善されず、少し困っている。 もう少しなんとかならないものだろうか。
NO.176 2014.8.22
<不変か補強か Why Change> 広島で酷い土砂災害が起きた。 亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。 また、被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。 日本ではこのような災害が、いつどこで起きてもおかしくない状況に今なっている。 同じような環境下に展開する住宅地はそれこそ無数にある。 急に地形が変わったわけでは無論ない。 この国はそもそも平野部が少なく、総体的に山岳部の多い地形だ。 高い山脈のてっぺんが海面から突き出たと考えた方が近い。 そこに貼り付くようにして人々が暮らしてきた。 人が暮らす集落は、平野部といえど実は山体の中腹であり、その山麓は海面はるか下、日本海溝の底である。 そう、変わったのは地形ではなく雨の降り方のほうだ。 先日の京都でも、見たことがないような激しい降雨を体験した。 同じような事が、いやもっと激しい事が今度は広島で起き、きっと遠くないいつか他所でも起きるだろう。 政府、自治体は危険箇所を把握している。 しかしそれは現状不十分で、今後更に危険とされる箇所は増え続けるだろう。 それら無数にある危険箇所を把握しきったとして、それを一体どうすれば良いのだ。 土砂災害を防ぐなら砂防ダムか。 だが、それは多すぎて無理だ。 異常な降雨はいつ起きるかわからないが、だからと言って起きなければ砂防ダムなどまったく必要ないのだ。 そうしたものを公共事業でもって、まるで万里の長城の如く日本中の危険箇所に張り巡らすというのは、費用対効果の点で不可能だ。 少子高齢化、人口減少により2040年までに、自治体の半数が消滅するとの推計がある。 人っ子一人いなくなった山村に、砂防ダムだけ残ってどうするのだ。 結局、自分の身は自分で守れ、という結論にならざるを得ない。 政府、自治体も言いにくいので黙っているが、そのように、つまり自分で何とかして、と思っている筈だ。 それは言い替えれば、広島みたいな事には滅多な事ではならないと思うけど、万一の時は救助その他に全力を尽くすから、それで勘弁して頂だい、ということである。 今も昔もこれからも、庶民の命は安い。 雨の振り方が変わった、というのは誰しも実感しておられることだろう。 これが一時的な波なら、仕方ないでも済まされる。 気になるのは、この先益々変わらないかという事。 そしてこの現象とCO2と温暖化の因果関係についてだ。 関係大有り派の学者も無関係派もいる。 私なんかに判る筈もないが、どうも全く無関係とは思い難い。 だが現在日本では、CO2削減はほぼ無視されていると言って良いのではないか。 かつて世界に向けて高らかに約束した御仁がいたが、震災・原発事故後まるでなかった事のようになり、化石燃料をガンガン焚いて発電している。 変なことにならなければ良いのだが。 モダン・ジャズ・カルテットとは関係ない話が続いた。 少し音楽でも聴いて気分を変えるのも悪くはない。 改めて本作を聴いて思ったのは「不変」と「補強」についてだ。 モダン・ジャズ・カルテットはごく初期にドラマーがケニー・クラークからコニー・ケイに変わって以来、最後まで不動のメンバー構成だったグループだ。 ベースのパーシー・ヒース、そしてピアニストのジョン・ルイス、バイブ(と言うと変な事を思う人がいるといけないので、ヴィブラフォン、鉄琴である)のミルト・ジャクソンというメンバーで、はじめはミルト・ジャクソン・カルテット(略せばこれもMJQ) を名乗ったという。 同じMJQでもモダン・ジャズ・カルテットに変えようと誰が言ったか知らないが、そうならなければ40年も同じ面子で続くことはなかったと思う。 大体ジャズのグループなどいい加減なもので、ビル・エバンス・トリオと言ったところで、不動のメンバーはピアニストのエバンスだけだ。 もうひとつのMJQ(マンハッタン・ジャズ・クインテット)も同じく、不変なのはピアニスト(バンマス)のデビッド・マシューズのみ。 どんどん交代ないし「補強」する。 元祖MJQはしなかった。 このチームのキモはジョン・ルイスの作編曲と、ミルト・ジャクソンのヴィブラフォンだとされる。 まあ、言ってみればミルト以外の楽器は、おとなしくしていてくれれば誰でも良かったのかもしれない。 ジョン・ルイスのピアノの重要性を語る人もいるが、もう一度聴いてみてくれ。 ドラムもベースもそうだが、今となってはもう古くて古くて。 最後に、私もスピーカーに補強を加えたので見てください。 補強と言うからには、前より音が良くなっていないとダメだが、どうだろう。 良くなったような気もする。 いや、ホーンのスロートにネジ4本で20キロ近いドライバー(発音器)がぶら下がっているよりは、少なくとも精神衛生上ずっと良いのである。 尚、黒い物体を下から支えるこのパーツ、ホームセンターで200円程度の品だ。
NO.179 2014.8.27
<マジック・カーペット・ライド> 正直なところこのバンド、フォア・プレーなど少しも好きではないし、せめて同じバンドのギタリストなら、リー・リトナーより私は断然ラリー・カールトン派だ。 だが、このアルバムに収録された「マジック・カーペット・ライド」だけは特別な存在なのである。 もしも聴いたことがないという方がおられるなら、今更まるまるこのCDを買うことはないので、なんとかしてこの曲だけ聴いてもらいたい。 名曲だ。 なんとなくふやけた音色と顔つきのリー・リトナーも、この曲についてだけは許せる。 マジック・カーペット・ライド。 魔法の絨毯の乗り心地と言えば、シトロエンのハイドロニューマチック・サスペンションや昔のネコ脚ジャガーなんかを普通連想するだろう。 それはそれで正しいと思うが、それだけでもない。 国産の自動車、特にトヨタ車など特に何事もなく、今や普通に魔法の絨毯に乗っているようだ。 それらと対極にありそうなイメージなのがドイツ車である。 なんとなくタイガー戦車とかユンカース爆撃機なんかのイメージが先行するけれど、これも必ずしもそうとは限らない。 我家にドイツのオープンツーシーター、ボクスターという車があり、普段その存在を完全に忘れている。 若気の至りというべき事情で、今世紀初頭に買ったものだ。 この車が意外に乗り心地が柔らかいのである。 それは偶然年式によるものであるらしく、その後イメージ通りのガチガチな足回りになったようだ。 ガチガチの方は乗ったことがなく分からないが、今なら勘弁してもらいたい類のものだろう。 だが、若気の至り当時はそんな分別ある筈もなく、なんか思ったよりふにゃふにゃしてないか、などと訝しくさえ感じていた。 その頃は自分が車好きと何やらカン違いしていたようで、更に笑うはマニュアルトランスミッションを私は選択した。 それから十数年経つも、走行距離は1万3千とかで、年間千キロも乗っておらず、要するにただ置いてあるだけに近い。 そうなると冷えてきた男女交際のような妙な焦りがある。 そろそろ電話しないとマズイ的な感覚でしょうか。 本日、そんなわけで久々にエンジンをかけようとしたのだが、どうもこいつは完全に死んでいた。 バッテリーだろうとすぐに分かった。 同じ事が過去何度かあったからだ。 ただ、今回前のと違うのは、まったく何の反応もないのである。 完全に放電してしまっている。 自力ではなんともしようがないので、JAFに救助を依頼した。 待つ事しばし、JAFの青年到着。 説明によればエンジンをスタートさせるのは簡単であるが、その後バッテリーを充電するか交換する必要がある。 その判断と作業はディーラー等になり、JAFでは出来かねる。 エンジンスタート後、ディーラー等へ行くまでの間に、バッテリー不具合によりエンストする恐れあり。 以上である。 いやー、まいったな、ディーラーというのが我家から遠く、20キロ弱の彼方にある。 どうしたもんか・・・悩んでいたらJAF青年曰く、エンジンをスタートしディーラーへ向かってくださいと。 私が後をついていきますから、万一エンストしたらハザードを点け出来るだけ左に寄せてください。 そんな・・・あなたにもこのあと仕事があるでしょう? これが私の仕事です。 あまりのかっこよさに倒れそうになりながらも、JAF青年の指示に従いディーラーを目指す。 当然いつもよりクラッチ操作が慎重になる。 JAF青年の作業車はやけに遅く、バックミラーを見ながら這うように進む。 いつもよりディーラーが遠い。 そんな筈はないのに。 やっと到着し、私は迂闊にもエンジンを止めた。 サービスの人がやってきて、再スタートしようとしたが、もうエンジンはかからなかった。
No.206 2014.10.4
<そして誰もいなくなった> ジョー・ザビヌル、ウェイン・ショーターによる双頭バンド、ウェザー・リポート中期のヒット作。 製作途中よりジャコ・パストリアスが参加した事でも知られる1976年の作品だ。 ライナーノートを岩浪洋三氏が書いておられる。 故人をあまり悪く言うものではないが、どうもこの方の文章は読み辛い。 そのうえ言葉遣いに癖があるので、三行読めば岩浪さんだとわかる。 ただ、この業界の第一人者であったことも事実であり、私が初めて買ったジャズ本は岩浪さんが書かれたものだった。 その岩浪さんも言っておられるが、当時はまだフュージョンではなく、この手の音楽を「クロスオーバー」と呼んでいた。 ところでジャズと演歌のクロスオーバーが昭和歌謡ではなかったか、と私は睨んでいるのだがどうだろう。 ジャズとロックのクロスオーバー、ジャズとクラシックのクロスオーバー、色々あるが、確かにショーター中心のB面にジャズの残滓を感じなくはない。 ザビヌル中心のA面は、よりコマーシャルな方向へ行こうとするフュージョンへのジャンプ台に見える。 白い黒人ともいわれたザビヌルは、MJQのジョン・ルイスなんかより音楽的にずっと黒い。 だが黒いと言ってもバップ的な黒さではなく、どこか陽気で南の楽園を思わせるラテン系の黒さだろう。 その点ではチック・コリアにも同種の匂いを感じる。 この二人をもし入れ替えたら、どんな音楽が生まれたのだろう。 ウェザー・リポートとリターン・トゥ・フォーエバーが同時期に存在した奇跡に比べれば、それほど難しいことでもなかったように思える。 ザビヌルが書いたタイトル曲の「ブラック・マーケット」は闇市場というより、楽想からいってもまさにジャケットに描かれたような、とあるアフリカの海岸で開かれる黒人たちの市場をイメージさせるものだ。 この「とあるアフリカの海岸」で起きているエボラの感染を、イスラム国よりも低危険度に前回見積った。 だが、今朝放送されたある報道番組を見ていたら、どうもそのようにも言っていられない気がしてきたのである。 エボラウィルスはアフリカのコウモリが元々持っているもので、コウモリには一切悪さしないが、コウモリを介して一たび人間に感染するととんでもない事が起きる。 過去何度か起きているが、死亡者300人程度の被害で全て抑え込んで来た。 今回もその程度の話で収まるのではないかと思っていた。 ところが今年4月の死亡者数(これはあくまでも把握しているものに限られる事に注意を要する)二百数十人から始まり、毎月倍増を続けているのだとか。 その結果現在までの累計死亡者数が、把握しているだけでも7000人を超えているのである。 番組では今後このまま毎月倍増を続けた場合どうなるか、という試算をしていた。 簡単な計算である。 一年後死亡者数は100万人前後となる。 これは数字のマジックと言っていいだろう。 そもそもエボラウィルスは空気感染しないので、仮にこのまま感染が拡大しても、地域の人間全員が死亡してしまえばそれ以上の拡大は不可能だ。 だが、万一感染拡大の途中で空気感染するタイプに変異したら? 電卓片手に計算してみるといい。 2年後の4月、死亡者数は40億人となる。 そして翌5月の死亡者数はゼロ。 この地球上に人類が一人もいなくなるからだ。
No.214 2014.10.14
<ONE FOR ALL> 昨日は台風の影響で、残念な体育の日となったようだ。 私のところはまだ大きな影響が出ていなかったので、車の幌を開け本年度のラストランを軽くやった。 その後バッテリーのコードを外し、車は半年の冬眠に入る。 今年も数百キロしか走らなかった。 この車をどうしたものか、少し考えている。 走行距離がこの程度だから、ガソリン代など知れたものだ。 だが、車税と車検等で年当たり20万程度の負担となっている。 CDならこれで100枚くらい買える。 しかし中古車屋に売ったところで、車自体は最早二束三文であろう。 倅に譲ろうか。 だが奴は未だ半人前で、何しろ運転免許すら持たない。 免許を取っても維持できるか、という問題もある。 免許取りたての初心者が、いきなり左ハンドル・マニュアルミッションも酷といえば酷だ。 私は物を大切に扱う人間で、加えてずっとガレージ保管しているので、車のコンディションはすこぶる良い。 息子に渡せばおそらくは野晒しとなり、あっという間にガチャガチャになるのだろうな。 まあそれは仕方ない。 何れにせよ、まだ当分手元に置くことになるか。 朝となり、台風が接近してきたのか天候が悪くなってきた。 そんな中、大音量でONE FOR ALLを聴いて過ごす。 本作は2002年のクリスクロス盤である。 2003年に亡くなられた安原顕さんが生前、クリスクロスの帯解説を書いていると語っておられた。 「これまでフロントのエリック・アレキサンダー(ts)とジム・ロトンディ(tp)にスポットが当てられていたが、デビッド・ヘーゼルタイン(p)やスティーブ・デイビス(tb)のソロパートも増え、ピーター・ワシントン(b)の比重が高まった・・・」 これはギリギリ間に合った、安原顕さんの仕事かもしれない。 解説と言ってもメンバー紹介程度のものだが。 もう一人のメンバー、ジョー・ファンズワース(ds)を入れて六人。 三管編成の要はジャズメッセンジャーズスタイルだ。 後から見ると当たり前に見えるけれども、フロント三管、それをトランペット・テナー(あるいはアルト)サックス・トロンボーンとしたバンド編成は立派な発明である。 もしクラリネット・フルート・チューバだったら全然別の世界なのだから。 言いたくないが両者(ジャズメッセンジャーズとの)最大の差は人種だ。 ONE FOR ALL、ベースのピーター・ワシントン以外皆白人である。 当然ながらこれは、モロ音に顕れる。 むしろ後発のハイファイブが好敵手と考えられる。 向こうは二管でファブリツィオ・ボッソ、本作は三管だがエリック・アレキサンダーという、10秒ソロを聴けば特定できるスタープレーヤーがそれぞれいるので聞き違える恐れはない。 どちらかと言えばハイファイブの方が陽性であり、若い分勢いがある。 日本ではビーナス諸作の印象から、少しコマーシャルな捉えられ方をされるONE FOR ALLだが、実際はだいぶ違う。 そしてジャズメッセンジャーズの熱気うんぬんを求めても仕方がない。 アート・ブレーキーもクリフォード・ブラウンもこの世の人ではない。 ホレス・シルバーまで今年鬼籍に入った。 そんな彼らの代用品として聴く必要もない。 少しメカニカルであり理性的には過ぎるがONE FOR ALL、新しい分録音も良いし現代的なハードバップとして聴けば、これはこれで私は存分に楽しめる。
No.219 2014.10.23
<アランフェス協奏曲> M.J.Qという長年続いたバンドがあった。 彼らはモダン・ジャズ・カルテットなのだが、初期にミルト・ジャクソン・カルテットとも名乗った。 どちらも略せばM.J.Qという訳だ。 本作L.A.4は多分ロスアンジェルス4だ。 だが、ローリンド・アルメイダ4かもしれないと思わせる洒落になっている。 芸風やや似ていないこともないが、私ならL.A.4を選ぶだろう。 それはリズム隊の力量差による。 コニー・ケイ(ds)、パーシー・ヒース(b)対シェリー・マン(ds)、レイ・ブラウン(b)では勝負にならない。 異種格闘技になるが、ジョン・ルイス(p)対ローリンド・アルメイダ(g)、ミルト・ジャクソン(vib)対バド・シャンク(as,fl)は存在感でいくと互角の判定である。 結局リズム隊の差でL.A.4の勝ちとなる。 だが、シェリーマンがL.A.4でドラムを叩いたのは3枚のみ。 残りの7枚では駆け出しのジェフ・ハミルトンに替わり、一転勝負が分からなくなる。 知名度なら圧倒的にM.J.Q。 モダン・ジャズ・カルテットの響きがジャズっぽい。 対するL.A.4、なんか軽いよね。 このバンド名が売上に貢献したとは思えない。 ジャケットもパッとしないのばかりだ。 コンコードという会社、やる気があるのか、どうも分からない。 L.A.4の音楽はM.J.Q同様異端のジャズだ。 だが異端には異端の存在価値があるもので、ゴリゴリとハードバップが連続したあとに一曲だけ聴くとこれが良いのだ。 特に本作のアランフェス協奏曲を、時々私は無性に聴きたくなる。 一度聴いたら次は3年後なんだが。
No.241 2014.12.9
<STUFF> FM大阪の帯番組「ビート・オン・プラザ」で本作を聴いた。 この番組、発売直前の新譜をほぼまるごとオンエアするという無茶なコンセプトで、音楽好きな貧乏人の味方だった。 90分のカセットテープが大学の生協などで確か500円くらいで売られていて、これを買いビート・オン・プラザをエアチェックすればLPレコード二枚分を軽く録音出来た。 レコードの十分の一の費用だ。 もちろん10倍する本物のレコードが欲しい。 それは確かだが、買える枚数は限られていた。 本作を録音したカセットテープ(マクセルUD C90 B面にハービー・ハンコック "SECRETS" を収録)が今も手元にある。 番組DJの田中正美さんが、やや興奮気味に紹介する様がおかしい。 「ハ~イ、田中正美です。 ワーナーブラザーズ・レコードからデビューを飾ったスタッフをご紹介しましょう。 S・T・U・F・Fと綴りますけれども、とにかく凄いメンバーです。 パーソネルはベース(ここで声が裏返る)がゴードン・エドワーズ、 キーボードがリチャード・ティー、 ギターがコーネル・デュプリー、 ドラムスがスティーブン・ガッド、 ギターがエリック・ゲイル、 そしてドラムスがクリストファー・パーカー、 といった六人編成、 今年のモントルー・ジャズフェスティバルで絶賛を博しまして・・・・」 で、本作を頭からかけていく。 「スタッフ」は全員が手練れのスタジオミュージシャンであった。 前年アメリカで発売されたポップス系レコードの50%に、メンバーの誰かが関わったといわれ、事実グラミーを取ったポール・サイモンの「Still Crazy After All These Years」にも彼らの半数以上が参加していた。 しかし、いくら腕達者でも所詮裏方であり、表舞台に映えるようなスター性などそもそもない。 それが突然売れたのだから世の中わからないものだ。 ただしいくら売れたといっても、裏方がいきなりスターらしくなるわけもなく、終始「センター」不在のグループであったことも事実だった。 メンバー構成を見れば分かるが、ホーン無しの6人編成だ。 要するにリズムセクションがふた組いると思えばいいだろう。 不思議な構成であるし、更にはスタジオミュージシャンの性というか、誰一人派手な振る舞いをする事なく、正確無比な演奏をひた向きに展開する。 趣味が良いとも言え、少しジミだとも言える。 個人的な思いを除けば、率直に言ってドンと太鼓判というわけにはいかないかもしれない。 だが一度「Foots」だけは聴いて頂きたいのだ。 メンバー全員の共作とされるこの曲、エリック・ゲイルのイントロが始まった瞬間、1976年6月21日のあの夜に私は軽々と引き戻される。 音楽とはそうしたものだろう。 40年後の今この曲をご存じないという方が、バイアスのかからない真っ新な耳でこれを聴けば、どんな感想をお持ちになるのだろうか。 私はそれを聞いてみたい気がする。 後年スティーブ・ガッドは、マンハッタン・ジャズ・クインテットのオリジナル・メンバーとなる。 本作の成功が忘れられなかったものか、人は同じような歩みを繰り返すものか、そこの所はわからない。 ただ、今となっては、そちらの方がより有名なのかもしれない。
No.242 2014.12.11
<AIR> シカゴ出身のトリオ「AIR」のレコードを買ったのは、ほんの気まぐれだった。 たまたま暇つぶしに入った中古レコード店で見掛け、安いのでなんとなくレジへ持って行っただけ、というのが真相である。 ただ、少し変わった音楽をやっていそうな予感がした。 ちょっとフリー寄りのジャズと言っていいが、60年代以降にあったような突拍子もないものではない。 かつて寺島メグにおいて繰り広げられた、フリージャズライブの惨劇があった。 あるトランペッターが「演奏」した「水との対話」という「曲」についての逸話である。 その男タライに水を張り、ラッパの先を下向きに浸してブクブクと吹き、床を水浸しにしたという。 AIRは少し前衛的で難解なところもあるが、歴とした音楽である。 事実、本作におけるオープニングナンバーに、ジェリー・ロール・モートンの「シカゴ・ブレイクダウン」が選曲されている。 殆どそのように聴こえない、との意見もあろうかと思うが、最初だけだ。 彼らは元々ニューヨークのハーレムと並ぶブラック・ゲットーであるシカゴのサウス・サイドで活動していたが、当地ブラックミュージックの閉塞性に飽き足らなくなったのか、1975年ニューヨークへ進出している。 その頃ニューヨークではロフト・ジャズムーブメントが起きていて、今後本格的にブレイクする可能性を秘めていた。 ロフト・ジャズを支える聴衆と言うのが、主に白人それもインテリ富裕層であり、この国での商業的成功へ大きな後押しとなり得る勢力であったからだ。 事実AIRは新進気鋭のグループとして注目されるようになり、1982年アメリカデビュー盤となる本作を録音するに至る。 こうしたニューヨークのジャズシーンは、当時日本にも様々な媒体を通じ伝えられていた。 ジャズの新たな時代が始まっている、といった風に。 しかしそれは、シカゴにおけるブラックミュージックが幻影に過ぎなかったのと同様、ニューヨークましてこの日本では一過性の現象に過ぎなかったから、ニューヨークにおいては最早次世代のヤッピーにウケる事もなかったし、無論日本では一顧だにされなかったと言っていい。 インテリ富裕層はいつだって自分勝手で移り気で気取っていて、その上バカだ。 更に白人と来た日には、地球上でこれ以上感じ悪いヤツがいるのか。 結局バカが前衛音楽を聴いたフリしていただけだった。 自分を格好良く演出するアクセサリーとして。 実際は聴いても理解しても愛でても一切いない。 彼らが愛したものはシャンパンとコカインと破倫と、難解なものを好んで聴く良き理解者(と思い込んでいた)、つまり成功者たる自分自身だけだ。 クールだなんだとブームにのって、すっかりAIRを聴いている気分になっていたものの、何のことはない只のKYに過ぎなかったという事だった。 では、AIRの音楽を理解するのは困難か? そんな事はない。 分かろうとすれば誰にでも分かる。 特に私はインテリでも金持ちでもないので尚の事だ。 それは繰り返し聴く、これに尽きる。 愚直に。 なーに、一日いっぱい聴いていればいいというだけである。 そうすればボンヤリと、少しずつ何かが見えてくるものです。 頭の中で捻じれて絡まった糸を辛抱強く解いていき、ああそうかこうなっていたんだと。 それも音楽を聴く楽しみの一つだろう。 結構癖になる。 おまけにこのジャケット、一風変わっているがなかなかいいでしょう?